広報担当者・PRパーソンが知っておきたいパブリック・リレーションズ(PR)とは?⑥
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GHQが国内から引き上げて行った後、1950年代以降、国内では高度経済成長が始まります。
それとともに、パブリック・リレーションズ(PR)は、企業のマーケティングとして活用されるようになります。
いわゆるマーケティング広報の隆盛期に入るわけですが、この背景には以下のようなものが挙げられています。
①メディアの台頭
民放のテレビ局や週刊誌などのスタートで、国内でのPRでの普及のベースが整ってきた。
②広報部門の新設
日本航空や松下電器、東京ガス、東レやトヨタなどこの時期に続々と広報部門が新設されていった。
③PR会社の設立
国際PRやコスモPR、電通PRセンターなどのPR会社が設立されていった。
④経済ジャーナリズムの確立
経済ジャーナリズムと呼ばれる分野が生まれてきたとともに、経営分野の雑誌が創刊された。
またこの時期には、広告会社によるPR広告が展開され、企業イメージを醸成することに利用されるようになりました。
1950年代後半から始まる高度経済成長期には、大量生産した商品をいかに売るかが重視され、PR広告や販促、パブリシティなどがマーケティングの手法として導入されました。
本来マーケティングは、パブリック・リレーションズ(PR)の一環として取り入れられるものに対して、国内でこのような時代の流れが、PR =マーケティング(モノを得る手法)という流れを作ってしまったと言われています。
特に現場レベルでは、パブリシティを広告の補助手段、サービスとして位置づけたため、日本におけるパブリック・リレーションズ(PR)の本来の意味と役割が誤解される原因になったとされています。
1970年代は、70年の大阪万博に代表されるように高度経済成長の真っ只中の時代でした。
さらに列島改造ブームが起こり、それとともに公害問題や公共事業の批判、その他消費者問題など企業への批判も高まりました。
まさに企業の社会的責任がクローズアップされた時代といえます。
そこで経団連は
「経済団体において広報のための組織を整備拡充し、情報収集強化と対社会広報キャンペーンを実施すべきである。」
という提言のもと、1978年に財団法人経済広報センターが設立されました。
このような動きが1970年代に各企業で広報部などが広がっていくときっかけとなりました。
1980年代は、バブル景気につながる好況を背景に70年代とは異なる企業の社会性が打ち出されるようになります。
大きな動きとしては下記の3つが挙げられます。
①企業の文化活動の活発化
好景気をもとにメセナやフィランソロピー活動と呼ばれる文化活動やイベントなどが活発におこなわれるようになりました。
②企業の海外進出に伴う社会貢献への高まり
80年代は企業の海外進出が活発になり進出地域でのバッシングや摩擦などが問題になりました。
そのため企業は、利潤追求の前に良い市民であるという企業市民の概念が導入され社会貢献や地域活動が活発になりました
③CI活動の活発化
好景気を背景に企業は多角化や拡大化をおこない、それに伴う企業イメージ統一のためのブランディング活動が活発に実施されるようになりました。
この時期には、日本政府や企業も海外PR活動に積極的に関わるようになっていきました。
具体的には、海外報道機関へのアプローチや各国でのロビイングなど。
ただしこの70年から80年代にかけては、マーケティングPRを中心にしたパブリシティ型のPRが先行しました。
このことが、国内での相次ぐ企業不祥事や公害問題、海外では半導体や自動車などに代表される貿易摩擦などを引き起こす原因になったと言う指摘もあります。
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